ペットロスエッセイ
ペットロスエッセイ


第3回「ペットロス」エッセイコンテスト
入選作品

― 入 選 ―

「手のひらに乗る幸せ」

神奈川県藤沢市
石井 厚子 (いしい あつこ) 40歳

私が8年間の結婚生活を終わらせて実家に戻ったのは、今から10年前の事です。

バブル時代に大学生活を送り、そのまま就職。同僚の紹介でフリーのSEをしていた元夫と結婚した時、私は23歳でした。

家賃25万円のマンションに、毎月50万円の生活費、ブランド物だらけの生活。それが全て見せかけの幸せだと気付かされたのは、入籍してすぐでした。

地方の旧家の長男だった元夫は、男性しか愛せない人でした。でも、本家の体面を保つ為に結婚しないわけにいかなかったのです。離婚調停で分かった事ですが、元夫側は一族ぐるみで騙(だま)しやすそうな女性を探していたそうです。

贅沢(ぜいたく)な生活と同時に始まったのは、元夫の激しいDVでした。24時間の監視、無理な減量の強制、私の友人との連絡の制限、ささいな理由での暴力。それに反抗できなかったのは、元夫の『お前を世間に出しても恥をかかない為の教育だ』という言葉が正しく思えたからです。

私は色んな意味で、自分の世間知らずを恥じていたのです。

それから8年後、元夫の男性との浮気がバレ、私は元夫の実家で監禁状態になりました。

連絡が取れない事を不審に思った親友に助け出された時、私の体重は38キロ。重度のウツ病でボロボロになっていました。

元夫がDVの事実を完全否定した為、離婚調停は決裂(けつれつ)し、民事裁判が始まりました。でも、私の心身は出廷にも証言にも耐えられなかったので信頼できる弁護士さんに全てをまかせる事にして、自分の治療に専念しました。

2年間の入院と、療養所での生活を経て、抜(ぬ)け殻(がら)のようになって実家に戻りました。強度の対人恐怖の為、外出もままならない毎日でした。

しばらく経って、夕方少しの時間だけ外出ができるようになった時、近所にある小さな動物虐待防止センターの前を通りかかり、何の気もなく中に入りました。

部屋の机の上に小さなカゴがあり、小さな小さな子猫がワラクズに頭を突っ込んで、少しも動かずにいたのです。茶トラのシマのお尻しか見えなかったので、最初は「キノコ?」と思ったくらいです。

センターの女性が「紙袋に入れて捨ててあったんですって。ヘソの緒も付いたままだったのよ」と説明してくれました。

私は子猫をそっと抱き上げました。ゴルフボールほどの大きさでした。

私の手のひらに乗ってしまう大きさ。小さな小さな命。私は、その子猫をカゴに戻すことができませんでした。

ミルクのやり方、トイレのさせ方を教わり、私は家に帰りました。自分の部屋に入り、ベッドの上に子猫を下ろすと、私は家族に『猫を飼うことにした』と言いました。家族は当然大反対をしました。当時の私は、通院にも家族の同行が必要な上、激しいPTSDの発作を抑える為に大量の薬を処方されて、ほとんど寝たきりの生活だったのです。

自分自身の生活もままならないのに、母猫の初乳も飲んでいない子猫を飼う……。過去を振り返っては後悔で泣くばかりだった自分が、家族に向かって『自分で全部面倒を見る。絶対に迷惑はかけない』と言い切れた事が、今でも不思議です。

5月に家に来た子猫に『メイ』と名前を付けました。茶トラのシマシマの子猫は、小振りな里芋ほどの大きさで、目もあけず、時々小さな声でミィと鳴くだけでした。

私は必死でした。『お願いだから死なないで』と祈るような気持ちでミルクを作り、スポイトで飲ませました。小さな箱に湯たんぽを入れて、私の枕元にメイの寝床を作りました。

ほとんど寝た切りだった私が、メイのミルクを買いにペットショップに一人で行き、獣医さんにメイを連れて行くことができたのです。

3ヶ月ほど経つと、メイは遊びたい盛りの立派な子猫に成長しました。

この時期のメイは、おどろくような方法で私と遊んでいたのです。

ベッドから出られない私が紙を丸めて放ると、メイは追いかけてくわえて枕元まで持ってくるのです。何回でも飽きることなく『取って来い』を3ヶ月の子猫がするのです。

私が疲れて布団に潜り込むと、メイは私の横にぴったりと身を寄せて、私の枕に頭を乗せて眠りました。

しばらく経つとメイは、私の部屋から出て、家中を探検するようになりました。フスマを自分の手であけて、小さな体で必死に階段を上り下りするメイは、だんだん家族にもなついていきました。と言うよりも、メイの愛らしさや、小さな体で頑張る姿が、私の病気や長引く裁判で暗くなっていた家族を癒(いや)してくれたのだと思います。

メイを飼い始めて一年後、私は介護士の資格を取り、ヘルパーとして働きはじめました。

介護士を志(こころざ)したのは、長年の入院と闘病生活を支えてくれたたくさんの人に、少しでも恩返しがしたかったからです。

最初は、週一日だけの勤務でした。しかし、重いウツ病やPTSDの発作と戦いながら、二年後には訪問介護の常勤として夜間勤務をこなすまで私の心身は回復しました。

どんなに夜遅く帰っても、メイは玄関で待っていました。どんなに寒い冬の日でも、私が鍵をあける音で出迎えてくれました。

仕事で辛いことがあったり、発作で涙が止まらなくなると、メイは私の肩に手を置き、私の顔をのぞき込みます。その姿がまるで『私に何か出来ることはないか?』と言っているようで、私はいつも泣き笑いになりました。

メイは、もう病弱な子猫ではなく、立派な私の『お姉さん』になっていました。

メイ

メイの毎日の習慣は、私を布団に追いやる事です。遅くまで起きてTVを見ていると、メイは、足下で「ニィー」と鳴きます。『もう遅いよ。早く寝なさい』と言う意味です。それを無視していると、次は私の膝に乗って鳴きます。それも無視すると、次はテーブルに飛び乗り、私の耳元で「ニィーッ!!」と鳴きます。私が渋々布団に入ると、メイは布団の四(よ)(すみ)をポンポンと叩き、部屋から出て行きます。

私が病気だということを、メイはきっと忘れていないのでしょう。私がどんなに元気になっても、メイにとって私は、『心に傷を持った、見守ってあげなければならない妹』でした。

その当時、私には将来を約束した彼氏ができました。私の過去も、病気の事も、全て受け止めてくれる素晴しい人です。デートで帰りが遅くなると、メイは靴箱の上から「ニィー!!」と一声鳴きます。『こんなに遅くまで、どこに行っていたの!!』と騒ぐメイを抱えて、私は部屋に飛び込みます。「ニィー!! ニィー!!」と説教するように鳴くメイにひたすら謝りながら、私は幸せで泣きそうになりました。

家族、同僚、患者さん達、友達、婚約者、そしてメイ。私の周りには、私に無償の愛を注いでくれる人がたくさん出来ました。

傲慢(ごうまん)で見栄っ張りで、どうしようもなかった自分の過去が、少しずつ遠くなっていきました。

そして平成十八年九月九日、重陽(ちょうよう)の節句に結婚した私の幸せを見届けたかのように、その秋メイは天国に行きました。

冷めたくなったメイを抱きしめて、私は泣きました。泣いて泣いて、でもメイへの感謝の気持ちでいっぱいでした。

センターで、小さなメイを手のひらに乗せた時から、私の幸せにつながる道のりが始まったのです。

この先の人生も、私は持て余すような幸せは望みません。自分の手のひらに乗るような、小さな幸せのかけらを大切に、メイに感謝を込めて生きていきたいと思います。


《第3回コンテスト入賞作品一覧(4篇)

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